観るものと、生活の日記

劇団八時半

劇団八時半「そこにあるということ」
-★


2004年8月28日15:00於アトリエ劇研(京都・下鴨)


作・演出:鈴江俊郎
出演者:手持ち資料なく不明



(あらすじ)
28才会社員の中山は同時に3名の女性(同僚、アルバイター、その親友)と付き合って妊娠させてしまう。中山のアパートへ詰め寄る三人。同僚は中山に「なぜこんなことをしているのか」と責め立て、アルバイターは「それでも中山さんがすき」などと言い、その親友は悪阻に苦しむ。そこへ田舎にいた中山の妹と彼女も上京。やはり妊娠しているらしい。妹は彼氏の子だということだが「お兄ちゃんの子かもしれない」ということになる。中山は「なぜこんなことを」という詰問には「それぞれすきだったからだ」と答えて「みんなで生んで育てよう」などと答える。去っていく5人。中山はわめきながら部屋のものを全部ぶちまける。そこへまた「泊まる所がない」「外は暑かったから」などの理由で戻ってくる女性達。彼女は空虚な言葉をつぶやきつづけ、他の4名はいやがる中山をよそに「みんなで泊まろう」「修学旅行みたいだ」と布団を勝手にひきはじめる。


(感想)

これまで見た中で一番つまらない劇になってしまいました。今後たくさん観ればすぐに塗り替えられるかもしれませんが、今のところ。観始めて20分ほどで出て行こうかと思いました。我慢して観続けたけれど最後まで面白みがなく耐えがたい内容で、拍手すら起こる気になりませんでした。こんなことは始めて。初演時には「Kyoto演劇フェスティバル」で大賞をとっているそうですが…。地元ながら、 レベル低い賞なんでは…とつい毒づいてしまわざるを得ませんでした。

鈴江氏というのは蜷川幸雄演出「零れる果実」を書いた人だということで TVで見て気に入っていた私は、少し期待を持って観に行きました。
京都公演のみ。40席限定。チケット代2千円。というのはやや気になりましたが。
変わった舞台セットでした。3段ほどに高く積んだ座席に囲まれるように小さくぽつんとある茶の間。長く伸びた電柱。
上演前に劇団員から「上演中、物が飛んでくる場面があります。あたっても危険なものではないですが、万が一飛んできたらよけるなり打ち返すなりお願いします」とのこと。
変わった舞台セットは、ただただ最後の方で無意味に投げつけられる物が客にあたらぬだけの配慮だったようです(多分)。
しかし「あたっても危険がない」と言われたら柔らかい物を想像しませんか。ところが勢いよく投げられていた物は、椅子、本、ペン。固いものばかり。幸い客席には届かなかったけれど、事前の注意文句に問題を感じました。

お客かスタッフ?と思ってた人たちが役者で、劇は突然始まりました。
会話劇でした。かつ室内劇でした。元々どちらもやや苦手らしいです。いいものなら面白いのでしょうが、これも「場面変わってほしいし、動きもほしいし、異質な要素が絡むのを見たい」と思わされるタイプでした。

冴えない様子の男性をはさみ、何やら暗い表情の女性と、腹立ち気味の女性。
ありえない筋。ありえない設定。これは「筋がありえないのはわかっているけど、そういうことじゃなくありえない筋の中に現代人の心情に通じる何かを描きたかったんだ!」ってことだとしても、伝わりにくい。一人一人はリアルに描いたつもりだったのでは?それにしてはピントが外れて勘違いが強い。やはり「こういう人いる」「惚れてしまうのも分かる」と感じさせるものがなくては。
若い女性達の描き方、変です。男性1人に女性5人の会話劇で、女性が丸きり描けてないなんて、致命的ではないのでしょうか。
時代はいつなのだ。自分のことを「ハイミス」などという28歳女性。
25歳アルバイターもその描き方、セリフからして馬鹿にしている感じさえしました。立場が弱くて自信がもてない女性だからって簡単に「コロリと参る」程頭も悪くなけりゃ弱くもないのでは。ちなみにフリーターを時事ネタのように扱っているつもりかもしれませんが、初演が96年だったとしても全く新しい話題ではないと思います。
そのバイト女性の親友まで惚れちゃって、田舎に恋人もいて妹までお兄ちゃんがすきですか。それはまた不気味な。

この男性(中山)は「女性の心の隙間につけこんで優しい言葉で落としている」ということにしたつもりでしょうか。中山にはほとんど魅力を感じられません。
彼は「困るのだが、悪気はなく憎めない男」でもなければ
条件や手管で落としていく、という技をもっている訳でもない。役者の力不足というより、設定から無理があるんじゃないでしょうか。
東京で知り合った3名については「三者三様の孤独を愛した」のが同時に付き合った原因らしいが・…。勝手に愛そうとも愛し返される可能性は低いのではと思いました。

なぞめいた詩のようなことを口走る彼女の元、男性を無視して寝場所をこしらえはじめる他の女性達。何となく無理やり「終わり」という形にされてしまいました。

女性達の感情にも、男性の感情にも鈴江氏のひとりよがりを強く感じました。
劇団員に男性が少ないからこんな話にするほかなかったのではないか?という疑いすらおきました(案外あたってるかもしれません)。
「零れる果実」がよかったのはひとえに蜷川演出と役者陣のおかげだったのでしょうか。
あるいは「京都のみ40席2千円」の公演だから手を抜いたのでしょうか。
無理のある話・平凡な演出・魅力に欠ける役者。三つ巴で問題ありましたから。
大阪・東京公演とやっているものはもう少しランク上とか?そうじゃなければ
鈴江氏が岸田國士戯曲賞もらってるとは到底信じられません。

時間とお金がもったいなく感じたけれど、
「見て損になる舞台はない」と信じ反面教師にしようと(何の?)思いました。





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